明末瑠璃水滴 時間があれば骨董街をぶらぶらするのが習慣になっている。 気軽な骨董市の雰囲気で楽しめる街、そこから少々良いものも見られる街、きちっと真面目な値の張るものを選ぶ街。 骨董街でも、しらみつぶしに行くのではなく、自分の趣向に合った店がいくつかできてくるから、決まった店を巡回する。すると不思議に前の店ですれ違った人が次の店に居たりして、決まった同じ店を回っているのかと思うと面白い。 その日は、2番目の少々良い物を見られる街をうろうろしていた。 だいたいの店が休む曜日に、丁度近くを通りかかったので、開いているところでいいからと違う店でもふらりと入っていった。 名も知られている店だが、自分の趣向に合わないからいつも通りすぎる。たまに入ってみると面白いもので、古伊万里ばかりが並んだ脇にちょこちょこと中国物が置いてある。 中国物を主体に扱っている店からは、どうも「?」がつきそうなものもあるが、専門ではないわけだし、仕方がない。 しかし、その群の中に気になるものを見つけた。 「あっ。これは幾らですか」 「後ろに値段ついているでしょう」 確かに剥がれかけのシールが貼ってある。 ”明末 ○万円” へ?明末なのに○万円?安いなあ。 店主は古伊万里専門だから、こういうものは安いのかな?きっとそうに違いない。他に誰か違う人が見つけたら…これは買っておいたほうがいいな。と内心思った。 私の趣味とはちょっと違う感じだけど明末瑠璃の水滴で○万円は安い!ということだけで”買っておいたほうが”という気持ちが起きたのだ。 「いただきます」 「海上がりだから、綺麗ですよ。」 「へー、そうなんですか。それにしてはあまり痛んでませんね」 「磁器ですから」 「ふーん」 明末というと、古染付などが一般的で、確かに中国ものには違いない作り。 ここの店主もあまり変なことはしない「だろう」と信じていた。 嬉しくて、骨董市のオフ会でも知人に見せ、懇意にしているHPの投稿コーナーにも掲載してもらったあと、たまたま仲のよい中国ものの詳しい友人に得意になって見せた。 「これ、古くないでしょ」 「えっ」 「これ、昔ふうにつくったコピーだよ」 「・・・・」 「でも気に入って買ったんでしょ、その金額ならしょうがないね」 気に入って・・?、このときはっと気が付いた。 私は何を嬉しかったのだろう。そう、明末の瑠璃の水滴が○万円で買えたことが嬉しかったのだ。 商売人でもないのに、○○の価値のものが○万円で買えて得しちゃった!ということに執着し、自分が本当に欲しいものかどうかという問いかけをすっかり忘れていた。 その後、別の店で同じ物を売っているのを見かけた。 矢張り「明末・○万円」とついている。 手作りらしく、自分のものと多少造詣が違うが、同じ手のものだ。 しばらくして、過去の骨董雑誌を見ていると、買った店の広告に同じ品物を発見した。 ・・ということは、店の人も信じて買った品物だったかもしれない。 店の人に悪意はないことも分かったが、自分の買う行為に対するあまさを痛感した出来事だった。 ◆間違ったポイント◆ 今までと同じ。場面は違っても結局同じ事を繰り返している。 ◆学習したこと◆ 理論や、理屈で買って、肝心の鑑賞を忘れている。 |
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